菅生神社について

御由緒
徳川家康公が厄除けをした岡崎最古の神社


清康公による開運稲荷大明神
松平清康公が岡崎松平家(西郷信貞)を屈服させ旧岡崎城(明大寺)を破棄し、竜頭山の砦として竜頭山城を改修拡大して拠点を移転しました。
清康公が岡崎城ご入場の際ご神託により稲荷大明神の御分霊を祀られ、これを「開運稲荷大明神」といいます。
その時清康公が「冬枯れに残る常盤の色増して恵みも深き神垣の松」と神の恵みに感謝し、その返し唄に神主松平光房が「常盤なる色も替えて神垣の松と共に君ぞ栄えむ」と永遠に栄えるようにと常緑の松に松平を掛けてそれぞれがお詠いになっております。
家康公、信康公の後の岡崎城主 田中吉政公の時城内を拡張のため開運稲荷のお社を破棄され御神体は菅生神社本殿に納められます。後に現在の所に祀られています。
御祭神

天照皇大神あまてらすおおみかみ
皇祖神(皇室の祖となる神)太陽を司る神
「吹矢大明神」
豊受姫命とようけひめのみこと
食物・穀物を司る神
神亀2年(725年)山城国(京都伏見)より稲荷大明神を勧請
「菅生稲荷大明神・開運稲荷大明神」
須佐之男命すさのおのみこと
疫病除け、厄除け、縁結びの神
永正14年(1517年)額田郡宮崎郷より「天王宮」が菅生川洪水の為、高岩の地に漂着し、合祀して、「菅生天王宮」と改める。
「菅生天王宮」
菅原道真公すがわらみちざねこう
学問の神
第91代伏見天皇の御代、正応2年(1289年)河内国丹南郡菅生(現在の大阪)から、満性寺の了専上人が岡崎の菅生に菅生天神を祀る。
「菅生天神社」
徳川家康公とくがわいえやすこう
出世、天下泰平の神
第110代後光明天皇の御代、正保2年12月17日、岡崎城主水野忠義公が、徳川家康公を祀る。
「菅生東照宮」
菅生神社のみどころ
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明神型石鳥居 (岡崎市指定文化財)
寛永15年(1638年)岡崎城主本田伊勢守忠利が菅生神社本殿を修復した際に寄進したものです。
菅生川端石垣等もこの時作られました。

三十六歌仙額面
三十六歌仙は、藤原公任の『三十六人撰』に載っている平安時代の和歌の名人36人の総称です。当神社の三十六歌仙額面は、岡崎の彫刻家 鶴田鐵山による作で、昭和5年12月に奉納されました。

狛犬
ふくよかで愛嬌の良い顔をしています。
右側は「如澤」、左側は「雨時」と書かれています。
意味は「澤如(たくわ)、時雨(じうのごとし)」
恩沢が深く潤い及んで天下に広く行き渡っている様子。
君子の恩恵が世に行き渡っている様子を称えたもの。


慰霊社
前本多の頃の建物で城内で一番古い建物と言われております。
明治までは本殿として雨殿に覆われておりました。

パワーの木(楠)
数百年ものあいだこの地を見守る大楠木です。
昭和20年の岡崎大空襲の時、この楠木の直ぐ近くに爆弾が落ちたが不発。昭和50年に境内の菅生閣が焼失した折もこの木のお陰で延焼を免れる。近年、この楠木に触ると元気が沸いてくると、参拝者の方達の声をよく耳にしております。菅生の隠れたパワースポットでしょうか。

ハートの石
数年前、境内整備として本殿西側から掘り起こされたハートの石です。
本殿に祀られている「えん結びの神様」須佐之男命様の御神徳なのでしょうか?
ハートの形は何か縁起の良い気持ちになりますね。

無患子(ムクロジ)の実
無患子は『患いの無い子』という意味です。「子どもが病気をしない」という意味で、縁起物とされているそうです。無患子の種子は、正月の羽子板の羽の重りにも使用され、その果皮は、石鹸としても使用されていました。当社では、この種子を、巫女手作りの「無患子のお守り」として授与いたしております。

ルネ絵馬
この度、素敵なご縁を頂きまして菅生神社とルネガールがコラボをした絵馬を奉製致しました。
ルネガールは内藤ルネさんが「14、15歳の少女から70を越した少女まで、いつまでも心にみずみずしさを残した少女のため」にと心をこめてデザインをされたイラストです。
内藤ルネ
愛知県岡崎市出身。1960年前後にイラストレーター、人形作家、デザイナー、エッセイストなど幅広い分野で活躍したマルチクリエイター。
いまや世界共通語となった「Kawaii」のルーツと言われ、日本だけではなく海外でも脚光を浴びています。

東照宮石碑
菅生神社は武門の神と尊ばれ、 松平初代親氏公を初め一族の崇敬篤い岡崎城主代々の祈願所でした。