菅生祭

菅生祭

江戸文化・文政の頃より続く
伝統的な祭り

菅生祭は、厄災の除去を祈願したお祭りで、
江戸文化・文政の頃から、菅生川に提灯を付けた鉾船を浮かべ
金魚花火や手筒花火等を打ち上げ奉納しています。
7月19日「宵宮祭」、20日「例大祭」
8月第1土曜日「鉾船神事・奉納花火」の3つの祭事が行われます。

「鉾船神事・奉納花火」は昭和23年から「岡崎城下家康公夏まつり」の花火大会との合同開催で行われ、
岡崎の夏祭りとして市民を始めとした多くの見物客が集まる祭りとなっています。
夜の鉾船からの奉納花火の印象があるかもしれませんが、祭りは日中の炎天の下で始まります。

菅生まつり当日の流れ

本殿での神事~鉾船神事

午後2時

本殿での神事~鉾船神事

本殿での神事に続き、鉾船での神事「鉾船神事」は、2艘の鉾船、天王丸・菅生丸に神職らが分乗し安全を祈願する「船魂祭」を行い、次に船上から葦で編んだ舟形の中に6月の夏越の祓いの疫神を憑けた人形(ひとがた)、神葭(みよし)を乗せ、菅生川に流し、疫神を流し去るという神葭(みよし)流しという御霊会(ごりょうえ)の儀式を伝えるものです。

練り込み行列

午後3時

練り込み行列

「鉾船神事」が終わる頃、花火の前に氏子各町からの練り込み行列が開始されます。若衆が長持ち唄と伴に神社まで練り歩きます。昔は長持ちの中に花火が納められていました。

奉納手筒花火

午後3時半〜5時頃

奉納手筒花火

御神前での手筒花火の奉納が夕刻にかけて行われます。
宵闇の頃午後7時には、船上の提灯塔に一年の月数を表す12個の提灯を立て並べ、下方に傘状に一年の日数365個の提灯を点じた天王丸・菅生丸より手筒花火、金魚花火、乱玉等を奉揚します。

鉾船奉納神事

午後7時

鉾船奉納神事

この美しく風格ある景観は今から200年前の1818年より岡崎の名物であり、岡崎城天守を背景に現在も夜空を染める打ち上げ花火と鉾船を照らし川面に映る金魚花火・手筒花火は岡崎の夏の風物詩となっています。

桟敷のご案内

奉納花火のご案内

桟敷(奉納者専用席)のご案内

2025年8月2日(土) 夕刻 (予定)

菅生川(乙川)に浮かぶ鉾船の上で花火の奉納を執り行います。
桟敷席でご観覧できます。

※「岡崎城下家康公夏まつり花火大会」と共同開催。(同刻・同所)
※中止の場合の「順延」はありません。
※新型コロナウイルスの感染状況や水害等、自然災害等の影響で奉納鉾船神事は変更・中止の可能性もございます。

令和7年度の申し込みは決まり次第ご案内します。

歴史や由来

菅生祭の歴史をご紹介します

家康公による三河花火の発展

家康公による三河花火の発展

家康公は火薬及び硝石の採取などを三河のみに限らせ、お国者の特権を与えたことにより、三河花火の発展するところとなりました。

徳川300年の泰平時代となるにつれて、民間に伝わり魅力ある花火として扱われるようになりました。
主祭神の須佐之男命への疫病除けの願いと、火薬の持つ危険性が神に対する加護の精神と結びつき、それらの信仰心の現れとして祭礼用献上煙火となって行ったのでしょう。

鉾船により賑やかな祭りへ

鉾船により賑やかな祭りへ

菅生祭は、厄災の除去を祈願した祭礼です。
文化文政の頃には菅生川に日月を模した提灯を灯した「鉾船(ホコブネ)」が出され、管弦を奏し、船の中から金魚花火や手筒花火が奉納されるようになり壮麗で賑やかな祭りに変化したといわれています。

図:岡崎菅生神社祭典之図(大正11年)

氏子による金魚花火作成

氏子による金魚花火作成

このころ、城下では花火技術が拡がり藩主上覧の花火大会が行われ、これには城下各町が競ってそれぞれ打ち上げを行っており、城下町の住民たちも花火の技術を習得していたことがうかがえます。
彼らにとって花火は命がけの趣味であり、造り上げた花火を長持に入れて筒場に練り込む意気は鬼気迫るものがあった事でしょう。
祐金町の研せんという人が考案した金魚花火は、その技の妙を誇り機密を守るために若衆が花火のガワを川に飛び込んで拾い集めたとされています。

図:氏子による金魚花火作成(大正年間)

昔の資料を探しています